「価値相対主義」の問題は、すでに結論が出ていると
思っていた。
まさか「ウクライナ戦争」で「どっちもどっち」で
善悪の判断を忌避する者が、しかも西部邁の門下から
出て来るとは、まったく唖然とするしかない。
かつてオウム真理教問題で、「価値相対主義」が横行
したときも驚いたが、当時の「SPA!」がそっちに
傾いて、わしに対して「オウムは悪くない」という
投書が殺到したから、わしは「SPA!」をやめたので
ある。
そしてわしが西部邁の「発言者」に登場するように
なったのは「価値相対主義」の克服で、西部氏と
話が合ったからである。
わしはオウムに暗殺計画をたてられて、VXガス団に
尾行されていたので、「オウムとマスコミ、どっちも
どっち」なんて知識人ゲームをしている余裕など
なかった。
オウムが生き残れば確実に殺されていた。
つまり、当事者か他人事かの差が「価値相対主義」を
生むのである。
「クライテリオン」はウクライナ戦争が他人事なのだ。
ところがわしは日本人として、他人事にはなれない。
ゼレンスキーは善、プーチンは悪!それが判定だ。
しょせん他人事の「価値相対主義」になるのは、
臆病者の戦後民主主義サヨクと同じ心性を持っている
からだ。
彼らはわしの『戦争論』にすら、まだ追いついて
いなかった!